トウキョウ都知事選に勝利したイシハラ氏は、フクシマ原子力発電所の事故にもかかわらず、原発を推進しようとした。なにしろ、トウキョウは電力の一大消費地である。原子力発電所ができなければ、電力が不足する。その結果として、トウキョウの産業が衰退してしまうことを恐れたのである。
しかし、もはや、新しい原子力発電所建設を受け入れる地方自治体は一つもない。イシハラ氏は、なんとかどこかの県に受け入れさせようと、その安全性を強く主張したため、閉口した某県の某知事が「そんなに安全なら、トウキョウにでも作らせたらどうですか。」といった。売り言葉に買い言葉、イシハラ氏は「わかりました。それなら結構です。トウキョウに建設させます。」と大見得を切ってしまった。
言ったからにはやらなければならない。それができなければ政治家としての威信にかかわる。というわけで、原発をトウキョウに誘致することを表明、トウキョウ電力に申し入れをした。トウキョウ電力も、原発の建設場所がなくて困っていたので、これに飛びついた。
なに、都知事は、原発のトウキョウへの誘致など、どうせ議会で否決されるだろう、と多寡をくくっていたのだ。たしかに最初のうちは、都議会与党ジミン党のなかですら、反対の声が上がった。
ところが、である。
イシハラ都知事も腹の中はどうであれ、表向きは懸命になって努力した。お得意の恫喝も多用した。イシハラ軍団(某芸能プロダクションのことではない。イシハラの取り巻きのごろつきどものことである)も活躍し、反対派の人々に、罵詈讒謗をあびせ、かつ、脅迫まがいのことまでやってのけたのである。
トウキョウ電力も必死であった。彼らは、都議会議員はもとより、政財界の実力者、マスコミ、評論家ほか、ありとあらゆる関係者を実弾で攻撃(すなわち買収)した。
その結果、原発反対派、すなわち原発をトウキョウに建設してほしくない、と言う声が、だんだん小さくなり、原発誘致派の声が、相対的に大きくなってしまったのである。
それでも、議会はもめた。政党のなかでも、賛否はわれ、収拾がつかなくなってしまった。しかし、いつまでも、結論を出さないわけにはいかない。とうとう、党議拘束はかけず、なおかつ無記名投票で、原発誘致の可否を決定することにした。
もちろん、議会ではなく、住民投票で決定すべき、という声が上がらなかったわけではない。しかし、住民投票となれば、誘致反対派が勝つことは明白であったので、都知事は強硬に・・・少なくとも表向きは・・・反対した。こういう重大な決定は、政治が責任を持って決定すべきであり、住民に責任を負わせるわけにはいかない、と言う理屈である。トウキョウ電力に買収された議員は沈黙した。というわけで、議会での決定となったのである。
都知事は、これでよし、と思った。党議拘束なしの無記名投票であれば、みんな・・・すなわち、実弾を受け取った議員も、ひそかに反対に投票する、したがって、原発誘致は否決される、と踏んだのである。
さて、結果はどうなったか。原発誘致が可決されたのである。
都知事は表向きでは喜び、裏では落胆した。都知事は、トウキョウ電力が買収工作をしていることは知っていたが、買収した議員に、「私たちはあなたが賛成・反対のどちらに投票したかわかるんですよ、もしあなたが反対に投票したら、イシハラ軍団があなたの命をねらうことになっていますよ。」と脅しをかけていたことを知らなかったのである。
実際に、賛成・反対のどちらに投票したか知ることができたかどうか、は明らかではない。また、実際にイシハラ軍団が暗殺を企図していたかどうかも、あきらかではない。しかし、脅しの効果は絶大であった。買収された議員…そのほとんどは、本心では原発誘致には反対であったし、議員同士の情報交換で、ほとんどの議員が本心では反対であることを知っていた・・・は、自分ひとりぐらい賛成に投票したとしても、大勢に影響はない、だから生命の危険を冒すほどのことはあるまい、というわけで、安心して賛成に投票したのである。
さて、トウキョウ都民は驚き、かつ落胆した。かれらも、党議拘束なしの無記名投票なら大丈夫と思っていたし、マスコミの予想もそうだったからである。都民はあらためて原発誘致反対を言い始めた。しかし、何よりも自分の面子を重んじる都知事は、いまさら後に引くことはできない。傲然と都民の声を無視した。原発建設を強行に推進した。安全を危ぶむ声は日増しに高まり、都知事はますますその安全性を強調した。
とうとうある市民が「そんなに安全なら、知事公邸を原発の上に作ればいいんだ。」と冗談をいい、またまた売り言葉に買い言葉、ひょうたんから駒で原発の上に都議会、都庁舎、知事公邸をつくることになり、さらに、私邸まで、原発の隣に建てることになってしまった。
この段階でも、まだ都知事は楽観していた。なに、知事の任期は4年、そんなに早くはつくれないさ、と。ところが、である。トウキョウ電力も必死であった。この知事の任期中に完成させてしまわなければ、次の知事の時にはどうなるかわからない、というわけで、ニッポン中、そして世界中のありとあらゆる力と知恵を総動員して、2年間で原発を完成させてしまったのである。
(ここで読者は、いくらなんでも原発を2年間では建設できまい、と思われるであろう。作者もそのことは承知している。しかし、この話は空想科学小説ではなく、妄想政治小説である。多少おかしなところがあっても、お許し願いたい。)
さて、出来上がってしまえばしかたない。都知事は原発の上で働き、原発の隣に住むことになった。
しばらくして、副知事のひとりが、「もう年なので、引退したい。田舎にかえってのんびり暮らしたい。」ということで辞表を提出した。この副知事は、外見は穏やかではあるが、剛毅なひとで、知事にもたびたび苦言を呈したりしていた。知事にとっては煙たい存在だったので、その引退を惜しむふりをしながら、内心はしめしめと喜んで辞表を受理した。
またしばらくして、今度は局長の一人が辞表を提出した。語学に堪能で、教養も常識もあるいわば国際派とでもいう人物である。彼の友人から、アジアの某国で働いてみないかという誘いがあったとか。この局長も、人脈的には先の副知事につながっていたので、都知事は喜んで了承した。
次には局次長が、課長が、そしてまたその下が、あるものは民間企業へ、あるものは他の自治体へ、あるものは自ら起業し、あるいは陶芸をこころざし、ということで、海外へ、南へ、北へ、地方の都市へ、農漁村へ、あるいは離島へと、さみだれ式に退職者が出たが、都知事は気にもとめなかった。ほとんどが知事にたてをつくほどではないにしても、まあ、単純に上司の命令を聞く、というタイプではなく、どちらかと言えば、上司にとっては扱いにくい人物だったからである。知事の周りには、彼に逆らうものはいなくなって、彼は快適であった。
そうこうしている間、経済界にもちょっとした変化がみられるようになった。本音はともかく、表向きの理由は、今回のような大地震に備え、企業がトウキョウに集中している本社機能の一部を移転しよう、ということだった。
最初に口火を切ったのは、もともとはオオサカの財閥を母体としたメガバンクである。メガバンクは、かつて、外形標準課税の件で都知事ともめたことを忘れてはいなかったのである。ついでに、念のため、「外形」をトウキョウからなくしてしまおう、ということで、移転は登記だけのことで、実態としては、本部機能はトウキョウにのこる、といいながら、本社を移転してしまった。
都知事にこの本部機能移転は、比較的スムーズに行われた。すっかり全国規模の銀行となってしまっていたとはいえ、やはり、それなりの商売の地盤がオオサカ、関メガバンク西にのこっていて、他行に比べれば、オオサカ、関西方面の人員配置、設備投資、システム基盤が手厚かったことで、業務受け入れが容易だったのである。また、従業員もこれを歓迎した。関西出身者の雇用が多かったため、まあ、出身地に帰るという感覚だったのである。
横並び意識のぬけきらない、他のメガバンクも、程度の差こそあれ、同様の動きをした。
それは、生損保、証券会社等の金融機関に波及し、さらに商社、製造業と広がった。さすがに本社の登記まで変更する会社は、最初のうちは少なく、あくまでも、本部機能を一部移転しただけだった。しかし、トウキョウにおける業務が減少したことは事実であり、それに伴って運輸、小売、サービス業の需要が減少し、これら業種の会社もトウキョウにおける業務を縮小し、本部機能を移転していった。
そして、本部を2つ持つ余裕のない企業は、本部そのものを移転してしまった。移転先はおおむねその企業の「出身地」、すなわち創業の地であった。
いまはトウキョウに本社を持つ企業でも、そのほとんどが地方「出身」である。トウキョウで創業したとはいえ、その創業者が地方出身ということはめずらしくない。したがって、企業がその「出身地」に帰る=本社移転に、さほどの抵抗感はなかったのである。
さらに、もはやニッポンの企業というよりは、グローバル企業というべき大企業は、本社を海外に移転した。そして、その経営者は、近くに原発があるところに本社は置けないから、とその理由を明らかにした。本社移転には莫大な費用がかかり、利害関係者(主として株主)を納得させるためには、そのように明言するしかなかったのである。
最初に本部機能の一部移転を行った企業も、さらに機能を縮小したり、トウキョウから完全撤退したり、ということになった。つまり、最初は、トウキョウとは切り離すことのできる本部機能のみの移転に始まったこの動きが、トウキョウからの企業数を減少させ、それはトウキョウにおける固有の業務を減少させ、それに伴い、業務の縮小ないし、完全撤退せざるを得なくなったのである。
トウキョウからの企業の撤退→トウキョウにおける業務の減少→企業の撤退→業務の減少・・・という不のスパイラルが進行し、トウキョウはほとんどの企業が移転し、ニッポン経済の中心としての機能を失った。
さて、国政ではこの間、どのような動きがあったか。震災後の東ニッポンの復旧・復興が一段落したあと、にわかに首都機能移転問題が再燃した。大企業の本部機能一部移転が発表されだした頃である。表向きはもちろん、「現状では、トウキョウに政治・経済・文化のすべての機能が集中している。しかし、万一トウキョウが大震災に襲われたら、ニッポンは壊滅的な打撃をうける、したがって、政治の機能だけでも移転しよう。」というものであった。
これには、党派を超えて大多数の議員が賛成した。反対派の中には、イシハラの息子がいた。だが、彼とても、本音は、原発のそばには住みたくなかったに違いない。首都移転推進の気運は急速な高まりをみせた。
問題はどこに移転するか、である。オオサカ、ナゴヤ、キョウト、フクオカ、サッポロその他自薦他薦で様々な候補が上がり、収拾がつかなくなるかに見えた。しかし、とにかく事を急いだ国会議員たちは議論を重ね、妥協を繰り返し、恫喝し、懇願し、陳情し、時には実弾を使った。
大都市は候補から外された。すでに市街地が形成されているところでは、建物をすぐに建てることができないからである。平地で、しかも建物のないところが、首都の建設地にふさわしい。これには、ブラジルの首都のような前例があるのは読者もご存知だろう。
ニッポンでもっとも広い平野はカントウ平野であるが、これは問題外である。また、トウホク地方、トウカイ地方も、地震の危険性が指摘され、除外された。
広さだけでいえば、ホッカイドウにはイシカリ平野もあれば、トカチ平野もある。しかも、しかし、これには、あまりにも北に片寄りすぎている、とか寒冷の地はいやだ、とかいう反対意見のほかに、ホッカイドウの自然を破壊するのはけしからん、という意見もあり、候補からはずされた。
最後の、自然保護を理由とした反対意見は、シャミン党、キョウサン党が中心となって強力に唱えられた。これには裏の理由がある、とうわさされた。その理由とは、ホッカイドウでは、ロシアに近すぎる、ということである。まさか表立ってそうはいえないから、自然保護を理由とした、というのである。
カンサイにはすでに未開の平地はない。チュウゴク地方の平野はやや狭い。ニッポン海側は冬の間の雪が障害になる。というわけで、最後にキュウシュウがのこった。
キュウシュウというのは、国民感情にもマッチした。ニッポンの神話に、高天原への天孫降臨の話があり、神武東征の話がある。つまり、ニッポン人のルーツは南のほう、ということで、企業の「ふるさと回帰」の動きとなんとなく似ていたからである。また、朝鮮半島や、中国にも近い、ということも、あとから理由として追加された。
では、キュウシュウのどのあたりか。いくら「ふるさと回帰」だからと言って、宮崎県ではあるまい。鹿児島ではあまりに南に片寄りすぎている。熊本も悪くないが、阿蘇山が噴火する危険性はないのか、云々。結局、キュウシュウ北部の平地で、フクオカ市やキタキュウシュウ市というような都市部ではないところ、すなわち、サガである。サガ市、ではなく、サガ平野である。
読者も、これには驚かれるであろう。当初は首都候補にもあがっていなかった土地が首都となってしまったのだから。
なに、いちばん驚いたのはサガ県人である。最初から、首都に、と名乗りをあげることさえあきらめていた。それが「良かった」のである。自薦・他薦さまざまあるうちのどこかに決めれば、他のところは不満を持つだろう、したがって、誰も推薦しないところが、誰も不満をもたないところ、というわけで選ばれてしまった。
首都建設は急ピッチで進められた。現在の国会議事堂や、首相官邸、あるいは都庁舎などとは到底比べることの出来ない、お粗末なものであった。官庁も、議員宿舎も、お役人の官舎も同様である。震災後で政府の財政は逼迫していたし、なによりも、急いでい移転したかったからである。建物のお粗末さについては、誰も不平不満を言わなかった。
高層建築は建てられなかった。耐震性を考慮した、公式には一応言っているが、まあ、本当の理由は、先にのべた急ぎの建築、財政の逼迫である。ただ、幸いにして、土地は広く使えたので、建物が狭くて不便、と言うことは感じられなかった。
かくして、トウキョウの政治機能が移転された。
人口の減少は、当然文化的な衰退をもたらす。トウキョウにある劇場も、コンサートホールも、映画館も、美術館、博物館等々、人が来なくなって経営が成り立たなくなり、閉鎖された。
困ったのは、美術館、博物館の収蔵品である。閉鎖した建物にただ保管しておくわけにはいかない。メンテナンスをしなければならないからである。だが、これもそれぞれの品物のゆかりの地に戻すことで、大半は解決した。
大学も研究機関も移転、ないしは解散した。この手の機関は、もともと、トウキョウでなければならない、という理由はあまりない。そもそも、頭さえあれば・・・口、手、足も必要ではあるが、まあ、極端に言えば・・・よい稼業なのである。かつて首都機能移転の第一弾として、まずツクバ研究学園都市が作られたのを見ても、それがわかるであろう。
研究に情報の交換、集積は必要である。しかし、インターネットの発達した今となっては、ある特定の場所に人が集まる、情報を集めることはあまり重要でなくなっている。少なくとも以前よりは。
そうこうしているうちに、トウキョウにおける文化の衰退について、ある象徴的な出来事が起こった。
国会がサガに移転した後のことである。天皇は国会開会式に臨席するため、サガを訪れた。 そのあと、先祖の墓すなわち、天皇陵に詣で、イセ神宮に参拝しようということで、まずはキョウトに立ち寄り、キョウト御所に入られた。そこで、天皇は体調をくずされ、一時は危篤と報じられるほどであった。当然皇族方もキョウトに駆けつけら、そのお付のかたがたも同行された。
病状は一進一退を繰り返したが、とにかく回復された。しかし、以前のとおりと言うわけには行かず、公務は、なるべく皇太子ほかの皇族方が代行されますように、ご旅行は差し控えられますように、との侍医の見解が示され、天皇はそのままキョウト御所にとどまることになってしまったのである。そうなると、皇族方もトウキョウに帰るわけにはいかず、そのままキョウトにとどまることになり、とうとう宮内庁もキョウトに移ってきてしまった。このような経緯で「遷都」が行われたのである
キョウトの古い家柄の人々はこう言った。メイジ天皇は、ちょっと江戸へ行って来る、とお出かけになられた、しばらくそちらにとどまっておられたが、ようやく京のみやこに帰ってこられた、だから「遷都」が行われた=都が移されたのではありません、と。
いずれにせよ、ニッポン伝統文化の象徴たる天皇がトウキョウを去ったことによって、トウキョウがニッポンの文化の中心たる地位を失ったことが、明らかになった。
4年の歳月が過ぎた。都知事選が実施され、イシハラ氏が再選された。反イシハラ勢力は、議会内にも、都庁内にも、そして選挙民のなかにもいなくなっていた。トウキョウを去っていったのである。イシハラ氏自身は、もう年だから辞めようか、とも考えたのだが、周囲の「原発誘致という一大偉業を成し遂げたイシハラ氏は、余人を以って代えがたい。」とのごますりの声におされたのである。もっとも、それは事実で、彼のもとには、ゴマスリのうまい人物ばかりで、能力のあるもの、気骨のあるものは、一人も残っていなかった。
さらに4年が過ぎた。人口の減少は続いていたが、反イシハラ勢力がいない、という状況には変化がなかった。彼はまた再選された。そして次も、その次も・・・。
彼は不満ではなかった。なにしろ、彼に逆らうもの、耳の痛いことを言うものは誰もいなかったし、都知事の住まいはオール電化、冷暖房完備の豪邸であり、何から何までそろっていた。それに、欲望のおもむくままに生きてきた彼も、ようやく老いた。欲も少なくなったのである。
余談であるが、都知事公邸・私邸、都庁舎は、原発と一体の建築物としてトウキョウ電力が作り、費用も全額負担した。一部利害関係者=主として株主から、いくらなんでもやりすぎではないか、との批判もあったが、社長はそれに答えて、広告宣伝費と考えれば安いもの、と軽くいなしたのである。
都の職員数は減り続けた。人口の減少により、行政の業務量が減少し、それにつれて、人員を減らしていったからである。とはいえ、別に人員整理を断行したわけではない。やめる人を補充しなかっただけである。それに、人員整理をする必要もなかった。トウキョウ電力からの税収により、都の財政は潤沢であった。
都の職員の平均年齢は上がり続けた。新規採用をしないのであるから、当然である。給料は上昇した。年功序列の給与体系、ということもある。それに、役職手当に相当する部分も増えた。組織を整理しないで、人員を減らしたため、役職の兼務が多くなった。仕事はろくになかったから、兼務してもさほど忙しくはならなかった。それでも、名刺の肩書きが多くなれば、実態を覆い隠すことが出来、職員が高給を食むことを正当化した。普通なら一生平職員であるような人物でも、役職につき、昇格し、昇給した。
仕事はひまで、高給がもらえる、しかも昇給昇格も望める、ということであれば、原発の上という危険な職場ではあるが、それは我慢する、という人がいても不思議ではない。トウキョウの急激な人口減に比べれば、都職員の減少率がゆるやかだったのは、そのためであろう。
ともあれ、人は年を取る。死亡したり、病気になったり、定年退職したり、というわけで、都の職員は自然に減少していった。
都議会議員も同様であった。オール与党であるから、議論は必要ない。本来ならば議員も必要ない。だが、潤沢な都財政から、議員の歳費は支払われ続けた。高給つきの名誉職というべきであろう。彼らは、ほとんど無投票で再選され、自分で引退を望まない限り、議員であり続けることが出来た。
しかし、議員とて人である。死亡したり、病気になったり、自ら引退したりした。高給つきの名誉職であるから、なり手はいくらでもあるだろうが、都の人口減は誰の目にも明らかだったので、選挙区を合併したりして定員を減らし、都議会議員は自然に減少していった。
イシハラ氏にとっては、平穏な日々が続いていた。彼の周囲の人々も減っていった。息子たちはとうの昔に成人していた。国会議員の息子はキュウシュウに引っ越した。政治顧問というか、腹心の部下というか、側近と言うか、取り巻きというか、要するにそういう連中も減っていった。原発が怖いとは決して口にはしなかったが、老齢やら、病気やら、新しい仕事やら、何かと理由をつけ、彼のもとを去った。
彼は別に不自由を感じなかった。なにしろ、仕事がない。闘う相手もいない。まあ、ちょっと不便なのは、彼が機嫌の悪い時にあたりちらす対象がいない、と言うことぐらいであったが、とりあえずは平穏な日々であったし、近頃は体力も気力も衰え、当り散らすこともなくなったのである。
そして、とうとう最後の側近が彼のそばからいなくなった。いつの間にかいなくなっていたのである。巷では、都知事の理不尽ないじめに耐えかねて反抗したところ、返り討ちにあって殺されたのだ、とか、いや、誰もいなくなった都知事が気の毒で見ていられなくなり、そっと姿を消したのだ、とか、原発の上で暮らすことの恐怖から発狂して自殺したのだ、とかうわさがあった。しかし、どれも確証は得られていない。知事も黙して語らない。
だが、それ以上の進展はなかった。「最後の側近」の家族・親戚からは、警察に捜索願いが出なかった。彼の消息を知っているからだ、という説もあり、脅迫ないしは買収で黙らされているのだ、という説もあり、いや、そもそも彼は家族や親戚からは疎まれるような人物だったのだ、そうでなければ、あの知事とうまくやっていけるはずがない、という説もある。
マスコミもこの件には関心をもたなかった。社会の急激な変化に追いつくのに精一杯で、とてもトウキョウでの一失踪事件に首を突っ込んでいる暇はなかったのである。
そのころには、トウキョウには、知事と、その妻と、そしてトウキョウ電力の社員だけしか残っていなかった。そのほかの人たちは、死んだか、トウキョウを離れていったのである。
実は、トウキョウ電力の本社も、とっくの昔にトウキョウを脱出していた。もちろん、原発は安全だ、したがって、移転の必要はない、と言い続けた。しかし、国際機関からは、いくら安全だからと言って、都市の真ん中に原発を作るのはおかしい、そのすぐそばに万一の場合、対策本部がおかれるはずの本社があるのも良くない、という疑問の声があがった。ニッポン国政府もそれに従って、トウキョウ電力に対し、本社移転を勧告した。トウキョウ電力はいやいやながら、これに従った、ということになっている。
ただし、トウキョウ電力みずからが、そういうシナリオを書き、しかるべき国際機関のしかるべき要人に、そしてニッポン国政府のしかるべき要人に、「実弾」が発射された結果である、という説が流布されている、ということには、一応留意すべきであろう。
都知事と、残ったトウキョウ電力の社員、すなわち原発運転に必要最小限の要員とにより、トウキョウ都は維持された。
トウキョウ電力の社員=原発運転要員は、間違いなくトウキョウ都民であり、彼らの一部が議員を兼務した。議員は多額の歳費を支給された。当然東電社員として給料も支給されていたから、給料の2重取りのようなものだが、他の社員からは文句はでなかった。その高給も、危険手当のようなものが含まれている、とみなされたのである。
都の行政は事実上、トウキョウ電力の社員福祉と同義語となった。当然のなりゆきで、トウキョウ電力の社員が都の職員を兼ねるようになり、ここでも給料の2重取りが発生したが、もちろん、誰も問題にしなかった。
そのようにして、平穏な時が過ぎていった。原発は順調に稼動した。作り出された電力は、新潟県や福島県に、既存の送電設備を使い、従来とは逆の方向に送電された。これらの県では、原子力発電所は住民の反対により稼動させることが出来なくなり、電力供給が不足し、一方、トウキョウにおける電力需要は激減したから、まことに好都合なことであった。
ある日、トウキョウ電力の社長が、都知事を訪問した。社長は都知事に言った・・・。
我々は必死になって、原子力発電を安全なものにしました。その努力の成果がトウキョウ原発です。いまや、万が一の事故が発生しても、原発の運転要員はさておき、周辺住民には決して迷惑はかからないでしょう。
しかし、それに満足せず、さらに安全なものにしようと努力し、とうとう運転要員にも被害が出ないようにする目途がつきました。当初は、原子力発電それ自体の技術を高めることによって、その目標を達成しようとしましたが、どうしても限界がありました。そこで、発想を転換したのです。原発を無人化してしまえばいいのだ、と。
幸い、ロボットの技術が進歩しました。鉄腕アトムのようなロボットではなく、遠隔操作のロボットではありますが、人間の出来る作業は、すべてロボットが代わってやることが出来ます。トウキョウ原発の運転要員は、すべてこのロボットに代替させることにしました。
いや、都知事様にはご迷惑はおかけしません。水、食料その他必要なものは、このロボッの運転する車両でお届けします。またこのロボットを数台差し上げますので、何でもこれに命じてください。ロボットが、なんでもやってくれます。もっとも、厳密にはロボットを通して命令が操縦員に伝達され、操縦員がそのように操縦する、と言うことなのですが・・・。
かくして原発からトウキョウ電力の社員は去り、ロボットが残った。都知事に不満はなかった。豪邸は快適であった。原発は順調に稼動し続け、何事もなく日々が過ぎていった。
ある朝、都知事は目覚めると、食堂にゆき、ロボットに朝食の用意を命じた。いつも一人で朝食をとる習慣だった。
ふと、テーブルに目をやると、封筒がある。自分宛の手紙である。筆跡は妻のものである。封をあけ、便箋を取り出し、目を通した。
お目にかかってお話しようか、とも思いましたが、それでは、あなたは怒って私を引きとめようとするでしょう。私の決心も揺らぐかもしれません。何はともあれ、永年ご一緒だったのですから。
この間、孫の顔を見に行きました。孫はよろこんでくれました。ずーっといてね、と言いました。帰るときには、もう帰っちゃうの、といいました。またきてね、ともいってくれました。
嫁にこの話をしました。なんだか帰りたくなくなっちゃう、と言いますと、嫁は、にこにこ笑って、冗談か本気かわかりませんが、そうですね、ずーっとここにいらしたら、といってくれました。
あの嫁は、なかなかいい嫁です。優しい子です。私と気が合います。多分一緒に住んでも、私を邪魔にはしないでしょう。
昔、あなたは、年取った女は生きている意味がない、というようなことをおっしやいましたね。それとも誰かの言ったことだったかしら。私もそんな気がしないでもないですが、なんとなくいままで生きてきました。すくなくとも、あなたのような強い男には、私のようなものはいらないでしょう。
そういうわけで、私は孫のところへ行きます。お達者で。
読み終わって目をあげると、窓の向こうにフジ山が見える。都知事の家は原発の上の、それも最上階にあった。時は冬、空は晴れて、澄み切っている。なにしろ、工場は稼動をやめ、道路に車も通らないのだから当然である。真っ白に雪をいただいたフジ山が見える。老知事は物思いにふける。
フジの高嶺を軒端にぞ見る、か。誰の歌だったかな。大田道灌、か・・・。上の句はなんだっけ・・・。その頃はこのあたり、人家もろくにない、辺鄙なところだった、というな。今も、トウキョウには人がいない。昔に戻ったというわけか・・・。
徳川家康が、カントウに国替えになり、エドの町づくりに着手したのは天正18年、西暦1590年だそうである。当時の様子は、「東の方平地の分は、ここもかしこも汐入の茅原にて、町屋侍屋敷を十町と割り付けるべき様もなく、さてまた西南の方は、平々と菅原武蔵野へ続き、どこをしまりと云うべき様なし」ということである。「日比谷から江戸城大手門の方面にかけては、日比谷入江が奥深く入りこんで江戸城の脚下にまで達していた。日比谷入江の沿岸には、・・・漁村が散在していた。」
その後4百年以上にわたって、エド‐トウキョウに人は集まり続けた。トウキョウは膨張し続けた。
トウキョウは巨大なバブルだったのであろう。そして、都知事がそのバブルを針でつついた、すなわち、不用意な発言をし、そして何よりも自分の面子を重んじて意地をはり続けた、ということだけで、バブルははじけ、4百数十年前の状態にもどってしまった。
正確に言えば、元に戻ったのではない。昔、萱原であったところには、人の住まない住宅、働く人のいないオフィスビル、売り手も買い手もいない商業施設、稼動していない工場、車の通らない道路等々の、人の作った構築物の残骸が残された。
あるいは、別の比喩的表現がふさわしいかもしれない。人々は自らの欲望を充足しようと、エド‐トウキョウに集まってきた。その人々=都民が、彼らにふさわしい、欲望の固まりと呼ぶのがふさわしい代表者を選んだ。彼の失政により、天罰が下り、あたかも津波のように人々をトウキョウから流し去り、残骸だけを残していった、と。
トウキョウの住民は、自ら選んだ首長を見捨てて逃げ去っていた。しかし、イシハラ氏はそれを責めることは出来ないであろう。彼自身、トウキョウの住民は我欲の塊であることを承知しており、それゆえに彼が首長に選ばれたことを知っていたからである。欲望充足以前の問題、 すなわち、生命の危険を前にして去っていった人々の行為は当然すぎるほど当然である。
このような事態、すなわち巨大都市トウキョウが消滅したという事実を招いたことにつき、彼がみずからの責任を感じているかどうか、また、永年連れ添った妻に去られて、いくばくかの寂寥を感じなかったかどうか、我々は知らない。
リンク大歓迎!
このWebサイトはリンクフリーです。