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カバー

本書は新書判で、カバーが付いている。そのカバーの「表表紙の裏」にあたる部分に本書の要約というか、キャッチコピーのようなものが印刷されている。短いので、引用します。

列島を揺るがせた未曾有の震災と、終わりの見えない原発事故への不安。今、この国が立ち直れるか否かは、国民一人ひとりが、人間としてまっとうな物の考え方を取り戻せるかどうかにかかっている。アメリカに追従し、あてがい扶持の平和にあまえつづけた戦後六十五年余、今こそ、「平和の毒」と「仮想と虚妄」から脱する時である――深い人間洞察を湛えた痛烈なる「遺書」。

本書を見事に要約していますね。

そもそも、バブル崩壊後の「失われた20年」で、日本人が自国の未来に明るい展望を見いだせなくなっているときに起きた震災・原発事故は、我々に日本人の、あるいは人間の科学技術の限界を思い知らせた、というべきでしょう。言い換えれば、社会にたいする不安があったところへ、さらに科学・技術への不安が加わったということか。

そこで、石原は物の考え方を変えよ、という。

まあね。たしかに、考え方を変えたほうがいいかもしれない。

だが、天災は天災、事故は事故、モノの考え方は考え方で、それぞれ別個に検討すべきじゃないかね。なにも一緒くたにしなくてもいい。そういう一緒くたの考えが「天罰発言」を招き、石原が非難されることになったんじゃないですかね。

第一章が「平和の毒」で、アメリカ追従への批判であり、第2章が「仮想と虚妄」でネット社会への批判。これも、一緒にすることはないんじゃないか。

少なくとも、これらのことを、別個に検討したうえで、もう一度組み立てて考えるべきではないか。「分析と総合」というべきか。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ははあ、「深い人間洞察を湛え」ているか「痛烈」かどうかはさておき、「遺書」ですか。

「遺書」だなんて縁起でもない。自分から言い出したことではなく、本を売るための宣伝文句として出版社が考え出したものだと思ったが、第一章の終わりに「私はこの本を自分の遺書のつもりで書きました。」とある。

そのくせ、橋下氏にすり寄ったり、新党結成に色気を見せたりと、まだまだ悟りの境地には程遠いようですね。


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