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「新・堕落論」批判

小生は、「新・堕落論」批判に限らず、本ホームページでは、石原慎太郎の意見そのもの、たとえば、核武装、憲法改正、靖国問題、「刷り込み」教育などなどについては、言及を避けてきました。こういうものも、真面目に対応しようとすれば、大変な労力が必要でしょうし、本ホームページの目的は、石原慎太郎を論ずることであり、個別のテーマを論ずることではないからです。

そして、一貫して、石原慎太郎の片言隻句をとらえてオチョくる、という手法をとってきました。石原慎太郎に論がないのだとすれば、そういうやり方しかなかったのだ、ということかもしれません。

「新・堕落論」を始めるときには、オチョクっていったものを、まとめると、自然に「新・堕落論」批判になると思っていたのですが、前に述べたように、どうやらこういうやり方では「新・堕落論」批判はできないようです。 では、こういう手法を捨てるとすれば、ほかにどういう方法があるか。いままでのやり方を捨て、思い切って、彼の言いたいことを正面に据え、批判することか。では、何が彼の言いたいこと=「論」なのか?論文でもない文章の「論」はどうやって、把握するか?

幸いにして、というか、かろうじて、というか、本書のカバーに書かれているキャッチコピーがあります。これを手がかりにして、とりあえず「論」であるとして、批判してみましょう。

列島を揺るがせた未曾有の震災と、終わりの見えない原発事故への不安。今、この国が立ち直れるか否かは、国民一人ひとりが、人間としてまっとうな物の考え方を取り戻せるかどうかにかかっている。アメリカに追従し、あてがい扶持の平和にあまえつづけた戦後六十五年余、今こそ、「平和の毒」と「仮想と虚妄」から脱する時である。

アメリカに追従し、あてがい扶持の平和にあまえつづけた戦後六十五年余が、日本人の堕落を招いた、と言われると、なんとなくそんな気になりますが、本当にそうでしょうか。

戦後日本は、アメリカの言いなりになっていたばかりではないような気がします。社会主義勢力がいて、対米従属には強硬に反対していました。自民党長期政権は、確かに対米追従でやってきたかもしれませんが、それには、社会党・共産党などの野党による一定の歯止めがかかっていた、とみるべきでしょう。

政治のことはさておいても、平和の中にいると、人間が堕落するのでしょうか。では、260年以上続いた江戸時代に、日本人は堕落したのでしょうか。石原慎太郎自身、「江戸の成熟」だなどと言っています。これを江戸の退廃とは言っていない。

いや、そもそも、戦後、日本人は堕落したのでしょうか。小生はそうは思いません。今回の震災にあたって、被災地の治安は保たれ、ボランティアは被災地に駆けつけ、そして多くの義援金が寄せられました。これをみて、むしろ小生は、日本人も捨てたものじゃない、と思ったものです。

石原慎太郎は、「坂口安吾がかつて、当時の世相の変化を踏まえて書いた「堕落論」には世相が変わったので人間が変わったのではない」とあったが、今の日本の変化にそれがあてはまるものではとてもない。敗戦から六十五年の歳月を経て、この国では人間そのものの変質が露呈してきています。」と言っています。しかし小生は、日本人の一番大切なところは、変わっていないのではないか、坂口安吾のいうように、「変ったのは世相の上皮だけのことだ。」ということではないかと思います。

すでに、「年金詐取」で引用しましたが、石原慎太郎は「人間が人間である限り世代や身分立場をこえて、いわば垂直に継承される価値の基軸があるはず」と言っています。そして、小生は「垂直に継承される価値の基軸」を簡単に伝統的道徳と言い換えました。その伝統的道徳とは「儒教道徳」でしょう。

たしかに、江戸時代から明治・大正・そして戦前の昭和の儒教道徳の伝統は、学校教育の中では途絶えたかのように見えます。しかし、家庭における教育では、儒教道徳としては教えられずとも、「こうすべきだ」という規範として教えられてきたのではないかと思います。あるいは言葉ではなく、実際の行動として、教えられてきた、つまり「子は親の背中を見て育つ。」という形で受け継がれているのではないかと思います。

石原慎太郎は教育勅語のようなものを、「刷り込み教育」…ここではとりあえず、丸暗記の意味としておきましょう…で子供に教えよ、と言っています(本書「刷り込みこそ教育の原点」)。教育勅語は、儒教道徳にほかなりません。だが、いくら言葉を教えたところで、親がそれを実践していなければ、子供はそれを信じないでしょう。であればそれは、少なくともそれだけでは、「道徳」=人を律する内面の規範とはなりえないでしょう。

実は、以上に述べたことは、小生のオリジナルの考えではなく、山本七平氏の受け売りです。だいぶ、小生流にアレンジしているような気もしますが。

石原慎太郎自身は、少なくとも表面的には儒教的道徳規範が力を失った戦後社会のなかで、自らの欲望のまま、やりたい放題をやってきた人間ではないか、と思います。しかし彼が儒教道徳を「垂直に継承される価値の基軸」という名のもとに再発見したことは、それ自体は大変結構なことでしょう。そして、彼がおそらくは短い余生を、伝統的道徳にしたがって生きるならば、なおさら結構なことです。

彼の、伝統的道徳にしたがって生きよ、それを教育せよ、我欲を捨てよ、という主張に、小生は反対しません。しかし、石原慎太郎の「堕落した日本人ないしは日本の社会に関する具体的な各種提言=日本社会への「処方箋」は、彼の妄想に基づいたものであり、事実に基づいていないと思われます。ということは、彼の処方する「薬」は効かないか、あるいは毒であるかもしれない。

たとえば、彼は、アメリカへの軍事的・政治的依存から脱却すれば、日本人の堕落も克服できる、と言っています。しかし、堕落の克服は、そんなに簡単なことでしょうか。外的な要因を取り去れば、元に戻る、みたいな簡単なことでしょうか。いったん、堕落したら、元には戻らない、かもしれない。

小生は、日本人の堕落は日本人の責任である、少なくとも一部は日本人の責任である、と考えない限り、堕落の克服は出来ないと思います。石原慎太郎は、日本人の堕落の責任はアメリカにある、として、日本人を免責しているような気がします。

「石原慎太郎、お前のいうことはわかった。だがお前に言われたかないよ。お前のいうことは、正しいかもしれないが、お前の言う通りにはしないよ。」というのが、小生の正直な気持ちです。

(「『新・堕落論』批判」-おわり)

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