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新・堕落論批判シリーズも、一応おしまいにしようと思います。一応、というのは、暇があったらぼちぼちやってもいいかな、とは思う、ということです。じゃあ、今までと同じじゃないか、という人もおられるでしょうが、それはさておき。
中途半端に終わるのも、気が引けますので、何かまとめのようなものを書きたいと思って筆を取りました、ではなくパソコンに向かいました。
はじめに、で述べましたように、新・堕落論批判は、まあ、石原慎太郎をオチョクるというようなつもりで「気楽に」やるつもりでした。そうして、「一章 平和の毒」「二章 仮想と虚妄」と進んでいくつもりでした。
ところが、この本には、いたるところに疑問点があり、それを追求していくとやはり、おかしいことばかりなのです。
前に書きましたように、石原慎太郎があげている事例(エピソード)は、ほとんど「誤解」ではないか、と思われるほどです。つまり、彼は事実に基づいて論証するのではなく、自分の言いたいことに合わせて、事例を曲解しているのではないか、と思われます。石原慎太郎は田中真紀子に「暴走老人」といわれて、この言葉がお気に召したらしく、みずから「暴走老人」と名乗っていましたが、本当は「妄想老人」ではないか?
もしかしたら、石原慎太郎は、客観的な事実と推論あるいは自分の主観、意見や主張を明確に区別していないのかもしれません。
とりあえず、明らかに間違いとわかったところだけ指摘しましたが、あやしいことは他にもいっぱいある。小生は、何か言わんとすれば、石原の言ったことを、ちゃんと調べてから書きたいのですが、そうなると、膨大な作業になります。いちいち付き合っていられない、という感じなのです。
もう一つの問題は、すでに「堕落論と戦後」で書いたことですが、石原慎太郎の話(テーマ)があちこちに飛びます。そして、そういう話が、ムードとしてなんとなくつながっているみたいなのですが、相互の関連性は明確には示されてはいないのです。節にタイトルがついていますが、本文では、タイトルに関することが書かれているわけではないのです。
普通の論文ならば、ひとつの文で一つのことを言い、次の文でもう一つの別のことを言う。そしてその2つの文の関連を示す、という形になっているでしょう。そして、いくつかの文が組み合わさって、節になり、一つの節また一つのことを言い、別の節で別の一つのことを言い、その2つの節の関連が示される。そういういくつかの節が組み合わさって、一つの章を構成し、ここでもまた一つのことをいう、という具合になっているでしょう。しかし、「新・堕落論」では、そうなっていないのです。
そうなっていないことを、具体例で示したいと思いますが、そうするには、原文を相当長々と引用するしかありません。小生の言うことがウソかどうかは、「新・堕落論」をお読みになればわかります、と、とりあえず申し上げておきます。
「二章 仮想と虚妄」は、「一章 平和の毒」よりそういう傾向が強いようで、オチョクろうとしてもそれすらできない、という感じです。オチョクる題材ぐらいありそうなものだ、と小生自身思うのですが、なぜできないかを説明する言葉がありません。妄想老人が、仮想と虚妄について語っているから、わけがわからないのだ、とでもいうべきでしょうか。
以上、「新・堕落論」批判を途中で投げ出すことの言いわけ、ではありますが、同時に新・堕落論」の文章の批判、石原慎太郎の文章の批判でもある、と思います。
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