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この章の終わりに、そして、この論文集の一応の終わりに際して、なにかまとめらしいことを言ってみましょう。
まずは、この章のまとめ。
石原慎太郎には問題が多いにもかかわらず、多くの支持者がいる。それは、彼の言葉が人間の本能的なものから発せられるので、人々の本能に作用し、共感を呼び起こすからである。それは、本能に作用するだけに、難しい理屈もいらないがゆえに、明快であり、力強い。
また、彼の言葉は、普段本音で言いたいが、自ら抑制して言わないでいる人々の代弁にもなり、それを聞くことは、本音で言いたいという欲望の解消ともなる。また強いものへの抵抗とも見えなくもないので、受ける。
そういう彼の言葉を論破するには、彼の言葉の「真意」で争ってはいけない。「真意」についての是非を棚上げし、別の次元で争うか、または、彼自身の言葉が矛盾していることを証明するのがよい。
石原慎太郎は本物ではないが、軽視してはいけない。彼の言葉は本能に作用するがゆえに強力で根強い。あらためて、はっきりダメといおう。
小説家と政治家は同じ言葉を道具としていながら、全く違う。政治家は自らの言葉を実現しなければならないかである。彼は政治家としてふさわしい人物か?否である。本能だけでは政治は出来ない。
つぎにこの小論文集のおわりに。
この小論文集で、隠居は、政治家石原慎太郎を論じたのですが、政治家石原慎太郎の言葉を論じたといってもいいでしょう。おそらく、こういう視点はユニークではないかと思っています。
この論文集の最後が、小説家と政治家なのですが、前々からなぜ彼が政治家になったのだろう、と言うことは疑問に思っていました。したがって、出発点に戻ったような気がします。ただ、なぜ、政治家になったか、については、憶測は申し上げましたが、論証してはいません。それは、急を要する問題ではないので、とりあえず棚上げします。
石原慎太郎を「呼び戻す」ために、次になすべきことは、彼の政策を論じることと、「呼び戻す」を政治運動として、どう展開するか、と言うことでしょう。それについては、別途、とします。
とりあえず、ここまでとしましょう。拙速でいきましょう。世の中は石原慎太郎のオリンピック招致で騒がしくなっているらしいです。少なくともネットの世界では。タイミングを失してはなりません。
ではまた。
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