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隠居が橋下徹批判をはじめるようになったいきさつ

隠居が橋下批判をはじめるようになったいきさつについて、述べてみたいと思います。というのは、多分、石原が橋下を知るようになったのは、小生が橋下を知るようになったのと同じような経過をたどったからではないか、と思うからです。

小生が石原慎太郎批判を始めたのは、天罰発言以降のこと。つまり2011年3月以降です。それ以前は、石原慎太郎はまあ、どうでもいい、と思っていました。橋下のことも、ほとんど知りませんでした。

橋下の名を知るようになったのは、石原慎太郎批判を始め、「Yahoo!知恵袋」に進出し、そこで「首相になってほしい人」とか、こういう「こんな内閣の顔ぶれはどうか」いうような質問があり、その回答に「石原慎太郎」とともに「橋下徹」の名前が出てきたからです。

マスコミでのアンケートでも「首相になってほしい人」のようなものがありました。その中で石原慎太郎が一位になることなどがありましたが、そのうち、石原に代わって橋下が一位になったりするようになりました(たとえば、こんなふうに)。

石原慎太郎は、自分の人気については、つねに注目していたでしょう。石原慎太郎ほど「首相になりたい人」はいなかったのでは、と思います。そして、小生と同様、首相になってもらいたい人」というようなアンケートで、自分を抜いた橋下の存在に興味を持ったのでは、と勝手に想像しています。

石原と橋下が実際にかかわりを持つようになったのは、橋下の「大阪都構想」がきっかけではないでしょうか。石原慎太郎は、都知事になってからは、首都機能移転には反対していました。だから、「大阪都構想」には反対で当然でしょう。

橋下のいう「大阪都構想」がどういうもので、どういうメリットがあるかはよくわかりません。それに対して石原がどういう意味で反対したのかも、よくわかりません。石原は、どちらかと言えば「都」の名称にこだわっていて、構想そのものの内容については、あまり関心がなかったように見えます。

とにかく、大阪都について、橋下と石原の間で会談が行われ、なにやら合意が形成されたらしい。

大阪は「副首都」で 石原都知事と橋下府知事が一致 日本経済新聞 2011/7/1

石原慎太郎はなぜか橋下徹とウマがあったらしいです。政治的な見解をこえて、何やら通い合うものがあったらしい。当初、政策的には石原と橋下は大分異なっていましたが、何度も話し合いをして、政策の一致をみようと努力しています。石原慎太郎にしても、橋下徹にしても話し合いをすること自体が珍しいことでしょう。

石原は、橋下が大阪市長選に立候補すると、わざわざ大阪まで応援に行っています。そのほか、何度か会談をして、政策のすり合わせをやろうとしています。

そして、橋下と石原の間には、密接な関係が築かれたらしい。東京都による尖閣諸島の購入の件については、都庁内でも知る人は少なかったのに、石原は、橋下には話していたようです

当初、亀井静香の提唱していた石原を代表にかつぐ新党構想は、紆余曲折の末、たちあがれ日本を母体とし、石原を代表とする、太陽の党の結成し、その3日後に解党して日本維新の会に合流するという結果になりました(このあたりの経緯は、当ホームページの「新党結成から日本維新の会への合流まで」をご参照)。この間、石原慎太郎は常に、橋下との連携を探っていたようです。

小生は、当初、石原慎太郎に的を絞って、橋下批判はやっていませんでしたが、こういう経緯の中で、自然に橋下にもかかわるようになってしまいました。

おそらく、石原慎太郎の政治生命は、もう終わりでしょう。そうなると小生も「失業」するはずなのですが、石原センセが、新しい仕事を紹介してくれたようです。この点、小生は石原センセに感謝しなければいけないのか?

(角の隠居(カドノインキョ)について-いまのところここまで)

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