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既に引用した坂口安吾「堕落論」についてのコメントを再掲します。
坂口安吾がかつて、当時の世相の変化を踏まえて書いた「堕落論」には世相が変わったので人間が変わったのではない」とあったが、今の日本の変化にそれがあてはまるものではとてもない。敗戦から六十五年の歳月を経て、この国では人間そのものの変質が露呈してきています。これはおそらく他の先進国にも途上国にも見られぬ現象に違いない。
そして、その事例として挙げられているのが、年金詐取事件。老人がなくなっても届出をせずに、家族がその年金を受取り続けていた、という事件です。
人間が人間である限り世代や身分立場をこえて、いわば垂直に継承される価値の基軸があるはずですが、今回の出来事はそれを疑わせる、というよりも歴然と否定した人間の所作にほかならない。ならばこうした出来事が如実に証している、垂直なる価値の基軸に代わるものとは結局長きにわたって続いてきたあてがい扶持の平和の内に培われた平和の毒、物欲、金銭欲でしかない。
石原は、「人間が人間である限り世代や身分立場をこえて、いわば垂直に継承される価値の基軸」と難しい言葉を使っていますが、小生ならば、「道徳」と言うでしょう。そうすれば、このパラグラフは、「戦後の平和の中で、個人の欲望、自由が肯定され、「道徳」がおろそかになり、そのためにこのような事件が起きたのだ」、と簡単に言い換えられます。
さて、石原センセには、これは、「おぞましく、衝撃的な出来事」だそうですが、小生はちょっと違う。そう言ってもいいのだが、どちらかと言えば「痛ましく、悲しい出来事」です。
この人たちも、「親の死を隠し、年金詐取する」ということを、やりたくてやったわけではあるまい、だがそうなってしまったか、そうせざるをえなかったのだろう。そして、もしかしたら、自分も同じような状況に置かれたら、同じようなことをやるかもしれない、という恐れを持ちます。
一方、この人たちに、道徳があろうとなかろうと、普通なら、こんなことは起きないだろう、と思います。そうでなければ、ある一定の年齢以下の人々はみな、年金を詐取するか、詐取しようとするだろうから。
この人たちが、悪くない、とは言わない。だが、それなりの、原因があったであろう、とは思う。小生はそれがなんだったのであろうか、と思います。
石原センセは、小説家でありながら、なにか、人間に対する好奇心のようなものがかけているのではないか。
小生は、この家族が、社会から断絶していた、ということが、この事件の原因の一つではないかと思う。親の死を不審に思ったり、あるいはその後の生活について相談できる親戚・知人はいなかったのだろうか。あるいは、行政には相談できなかったのだろうか。年金が受け取れなくても、生活保護を受ける、という手段もあっただろう。
石原センセは、行政の長でありながら、この事件についての、行政の責任ということは、考えなかったのだろうか。
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