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石原慎太郎と日の丸・君が代

石原慎太郎は「愛国者」として知られています。ですから、「日の丸・君が代」から始めることにしましょう。

1999年(平成11年)8月13日国旗及び国歌に関する法律に公布・即日施行されました。これは、「第1条 国旗は、日章旗とする。 第2条 国歌は、君が代とする。」これだけのものです。別記として、日章旗の具体的な形状、君が代の歌詞・楽曲が示されています。

それに対し、石原慎太郎は、

「文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った。」(Wikipedia 「石原慎太郎」の項より)

隠居=小生は、「日の丸・君が代」については、賛成でも反対でもありません。

具体的に言いますと、国旗を掲揚したり、国歌を斉唱ないしは演奏するという場があれば、隠居は起立するでしょう。ただ、米国のものであれフランスのものであれ、あるいは北朝鮮のものであっても、起立します。それがマナーだからです。

また、たとえばオリンピックで日本選手が金メダルで表彰台にあがり、君が代が奏されるのはうれしいです。日本選手がウイニングランで日章旗を持って走っても、別に不快にはなりません。大相撲千秋楽で、表彰式前に国歌が奏されてもいいです。

では、自ら進んで国旗を掲揚し、君が代を歌うか、となると、どうも抵抗がありますね。やっぱり先の大戦で、「日の丸・君が代」のシンボルのもとでなされたことの記憶が身にしみていると言うべきでしょうか(もちろん、その時代に生きていたということではないですが)。

だから、強制されたくない。強制したくない。お隣のうちは、祝日には門前に国旗を掲揚します。それは結構です。だが、我が家はそうしていない。隠居はしたいとは思わない

強制しなければいいのです。国旗・国歌に類するものは、強制なんかしなくても、普通に人々に浸透するものなのです、何事もなければ。集団への帰属意識というか、出身母体への郷愁というか、そういう本能的なものが、浸透させてくれます。

その証拠に、わが母校(東京6大学のひとつ)の校歌は、教えられなくてもみんな知っているし、歌えと言われなくても喜んで歌います。ついでにいいますと、某教授は、校歌を知りませんでしたが、これについても、誰も何も言いませんでした。

隠居はへそ曲がりですから、強制されると反抗したくなりますね。まあ、国旗を掲揚しなくても罰則はないし、国家の場合は起立してもうたわなければいいんですから、害はないんですが。

しかし、かりに隠居が立場上(たとえば学校長などの立場)、日の丸・君が代を強制しなければならないとしたら、きっと悩みますね。

国旗掲揚・国歌斉唱の前に、全員にこう言うんでしょうかね。

「国旗掲揚・国歌斉唱の際には皆さん起立してください。それが日本だけでない全世界のマナーだからです。一方、私は、日本の歴史のなかで、日の丸・君が代のもとでおこなわれたことについて記憶しており、これらに反感をもたれるかたがおられることも招致しております。そういう方は、声を出さなくて結構です。起立だけはしてください。」

慎太郎さん、いかがでしょう?


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