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石原慎太郎の政治家としての資質

この「石原慎太郎と政治」の章のまとめです。

前の「石原慎太郎の言葉とおこない」も、この「石原慎太郎と政治」も、どちらも石原慎太郎の言動を題材としており、それはおおむね政治的なものです。政治家石原慎太郎を題材にすれば当然なのですが。

違いは、どこにあるのか。

第1章では、言葉とおこないとその基礎(?)にある感性、彼の性癖(傾向・特徴)、あるいは「人物」といったものを探ろうとしました。

それに対して第2章では、彼の政治家としての見解、政策に疑問を呈しています。ただ、どちらかといえば、見解や政策自体の是非を論ずるのではなく、矛盾があったり、底が浅かったり、読みが甘かったり、という、論理の粗雑さをつこうとしました。

簡単に言えば、それぞれ、第1章で「人間石原慎太郎」を第2賞で「政治家石原慎太郎」を扱ったということです。

以下は言いわけです。ポピュリズムを扱った部分では、彼の政治はポピュリズムであるかもしれない、と問題提起はしましたが、断定はしませんでした(外国のマスコミからはポピュリストといわれているそうです)。それは、一つにはそもそも、ポピュリズムとは何か、という定義がむずかしい、ということがあります。

ポピュリズムとは

「人民主義」のことであり、「ナショナリズム(国民主義)」に対する用語。国家権力の正統性が、ネーション(国概念)に囚われないピープル?(人民)にあるというもの。ラテン語の「populus(ポピュラス、人民、民衆)」に由来し、民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場を指す。国全体を慮らない人気取りの意味で使われることもある。
( Hatena Keyword「ポピュリズム」より)

じゃあ、ポピュリズムで何が悪い、民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場を指すとしたら、民主主義とどう違うんだ、といわれると隠居では手に負えません。

ただ、石原慎太郎の場合は、民意を汲み取る云々というよりは、大衆受けすることのみを狙った政策、あるいは政治的態度ではないか、と思われてならないのです。また、大衆のために、ということよりは、自分が受けたいために、ということではないか、と思われてなりません。

おしまいの2節「長期政権」「公私混同」では、石原慎太郎が権力とはどういうものか、まったくわかっていない、といいたいのです。しかるべき地位にあるものが心得るべき「イロハ」とでも言うものをまったくわきまえていない。

要するに、この章では、石原慎太郎の政治家としての資質を検討しています。もちろん疑問符だらけです。

そして、政治家は政治家であるまえに人間であるわけで、彼の人間としての資質が、彼の政治家としての資質に反映されているでしょう。自分勝手、論理の希薄さなど。

(「石原慎太郎と政治」-おわり 「石原慎太郎と我々」に続く)

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