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前の節では、ひとは・・・彼の積極的支持者だけでなく、消極的支持者、中立を装った支持者を含め、さらに、支持しないが、心のどこかで一部支持している人を含めて、なぜ石原慎太郎の言葉に共感するのかについて述べました。この節では石原慎太郎が「受ける」理由について述べます。「共感する」と「受ける」とどう違うのか、聞かれるとちょっと困るのですが、とりあえず。
ごく普通の人々は、その人自身が思ったことをそのまま言ったりはしません。その発言の影響、すなわち、その言葉を聞いた人がどのように感じたり、考えたりするか、ということを予想し、また、それによって自分にどのような言葉が帰ってくるかを予想しつつ、発言するからです。また、普通の人は、自分が他人に対して言ったこと(たとえば、こうするべきである、ということ)には、自分自身もそれに従わなければならないと言うことを知っています。
そこで、普通の人々は、言葉を選んで表現するか、あるいは沈黙します。つまり、言論を「自己規制」しています。しかるに石原慎太郎は言論を自主規制しません。思ったままを率直に言うだけです。その言葉は、本能の言葉と言ってもいいでしょう。
実は、石原慎太郎の数々の言葉は、人々がその理性により自主規制し、自由に発言できなかったことを代弁してくれる、という意味合いがあります。言いたい事を言うのは・・・それが、代弁者の口を通してであっても・・・欲望の充足であり、快感を伴います。それゆえに、石原慎太郎の言葉は「受ける」のです。
さらに、本能をもっていない人がいないがゆえに、誰でも、心の中では、部分的には、彼の言葉に喝采を送っている、ということなのです。
石原慎太郎の数々の「問題発言」を勇気ある発言と評価する人もいます。これは、こんな事を言ったら、人からどういわれるか、と考え、沈黙している人たちが、石原慎太郎の「勇気」を讃えているのです。
「太陽の季節」は旧来の道徳律、社会の不文律に対する反抗と言えないことはありません。
また、資本主義対共産主義、戦争対平和、自民党対社会党という構図のなかで、石原氏のようにタカ派的発言(例:憲法廃棄、自衛隊は必要、非核三原則は馬鹿なこと、など)をすることは、反対派のバッシングを覚悟しなければなりませんでした。そういう意味合いでは、勇気ある発言といえたでしょう。
また、国連や裁判、日本国政府、官僚、といった権威に対する否定的発言も同様でしょう。まるで、正義の弱者が、悪の強者に敢然と立ち向かっているように見えるではありませんか。
これでは、受けないほうが不思議でしょう。
しかし、彼の「率直な」発言が、強いものにだけ向けられているわけではないことは明らかです。諸外国・諸民族に対する侮蔑的発言、弱者に対する差別的発言など。彼の発言は本能的なものであって、強者へも弱者へも向けられていて、正義とも無縁です。
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