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「論破」などという古めかしい言葉は使いたくないのですが、他に適当な言葉が見つかりません。それはさておき・・・。
石原慎太郎を批判する人たちに、たとえば、憲法9条を守る立場の人たちがいます。こういう人たちは、昔から石原慎太郎を批判してきました。しかし、それは、石原慎太郎を破る決定打とはなりませんでした。
実際、憲法改正の何が悪い、と居直られると、ちょっと始末に困ります。一方に必ず、憲法改正賛成、と言う人がいます。彼らを説得するのは容易ではありません。なにしろ、軍隊をもつ、というのは人間の防衛本能の発露みたいなもので、理屈抜きでもわかるのです。論争にすらなりません。
そして、憲法問題に結論をだせないでいる大多数の普通の人の「内なる石原慎太郎」も、「憲法改正賛成」と言っていますから、この「内なる石原慎太郎」を論破しなければなりません。
では、石原慎太郎を論破するには、どうすればいいのでしょうか。
「天罰」発言に例をとりましょう。冒頭の「ご挨拶」で、「天罰」発言で、石原慎太郎は被災者が何か悪いことをした、だから彼らに天罰がくだったと入っていない。その真意は「我欲をすてて、困難に立ち向かおう」である。しかし問題なのではなく、その「目線」「立位置」(隠居の嫌いな言葉ではありますが)・・・被災者のことが全く頭にないこと・・・が問題だ、論じました。この場合、「真意」で争うと石原の勝ちになってしまうかもしれません。
これと同様、石原慎太郎の発言の「真意」で争っていては、どうやら埒が明きません。いままで、人々が石原慎太郎を問題にしてきたのは、その「真意」=発言内容についてである、と言えるのではないでしょうか。石原慎太郎の「真意」に賛成・反対の立場を超えても、なおかつ石原はおかしい、そういうことは多々あります。
憲法問題を例にとりましょう。
「石原慎太郎と憲法」では、改憲賛成・反対はさておき、石原慎太郎は民主主義を無視している、と指摘しています。そしてもう一つ、憲法を認めない、ということは現行憲法に基づく現行の法体系も認めない、ということになり、現行の法律によって定められた手続に基づいてえられた彼の地位=都知事の地位も認められない、ということになる、というふうに論理を展開しました。
こういうふうに、「真意」=発言内容のレベルでは争わずに、論破することは可能なのです。むしろ、真意で争うと証明しにくい場合は、「真意」の是非を棚上げするほうが楽です。
実は、「天罰発言」を論じているときに、こういうことを発見し、その手法を他のものにも応用してみました。ほとんど応用可能でした。その結果がこの小論文集だといえます。
いや、隠居は「発見した」のですが、もともと論証というものはそういうものであるのかもしれません。あるいは、昔からの論争術にも、この手のものがあるのかもしれません。
この方法はかなり成功したと思っています。もともと石原慎太郎の言葉に論理性が希薄であるためでしょう。
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