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2015年大阪ダブル選 敗因分析

「まっとうでない大阪」を語る意味合い

「まっとうな大阪」を語るということは「まっとうでない大阪」を語るということであり、それは、あいつは改革に反対している、と思われるリスクがあり、かつ「橋下維新反対」に転化するリスクがあります。

ただ、小生はそういうリスクを覚悟しても「まっとうでない大阪」を語るべきだったと思います。一つには、柳本氏が率直に自分の思いを語ることで「発信力」は増大するだろう、と思われるからですが、ほかにも理由があります。

柳本氏はブログで<現場の混乱やそれに伴う経済状況の悪化や教育の混乱を目の当たりにしていれば>「まっとうな大阪」を求める流れは不思議ではない、<しかし、事前の世論調査などでも明確になっていた様に、橋下市政を評価するという人は6割前後の域まで達している。良くなっていると感じている人も少なくない。>と言っています。橋下センセイを支持する人たちは、「まっとうでない大阪」を目の当たりにしていないのでしょう。

柳本氏は行政を日常よく見ておられますが、「6割の人」は見る機会もないのです。したがって、橋下市政を評価したり、大阪がよくなっている、と思い込んでいます。柳本氏は「まっとうでない大阪」を語る=発信すべきだったのではないでしょうか。

しかし、「まっとうでない大阪」を語っても、案外目の当たりにしていない人には「まっとうでないことが感じられないのかもしれません。

橋下維新のまっとうでない政治は、すでにマスコミ等で報じられています。目の当たりにしていない人たちも、それは知っているでしょう。しかしそれでも橋下維新を支持しているのです。

この人たちは、橋下維新のまっとうでない部分を必要悪と感じているのではないでしょうか。改革のためには多少の犠牲は仕方ない。何もやらなければ失敗しない、何かやれば失敗することもある。あるいは、橋下維新が攻撃しているのは「既得権者」だから、その人たちが苦しんでもいいのだと。

こう考える人たちには、いくら「まっとうでない大阪」を語っても効果はありません。しかし、すべてのひとがそう考えるとは思えません。

繰り返しになりますが、一般的な言い方をすれば、人は正しい認識なしに、正しい判断ができるわけがありません。そういう意味で、橋下センセイの発信するイメージ(虚像)…大阪都構想も橋下維新の創り出したイメージの一つですが、…を否定することは、遠慮しなくていいのではないかと思います。

それに対する橋下維新の反撃はあるでしょう。また、橋下維新の支持者たちがその考えを変えるとも思えません。しかし、問題は有権者がどう判断するか、なのです。有権者が橋下センセイの発信するイメージに疑問を持ってくれさえすればいいのです。

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