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さて、話を元に戻しまして、「ポスト都構想」「橋下維新反対」「都構想反対」「まっとうな大阪」いずれも自共の共通スローガンとして発信するのは問題あり、ということになります。そのなかで、可能性のあるのは、「都構想反対」「まっとうな大阪」でしょう。あえて一つに絞り込む必要はないかもしれません。
となると、次の問題は「都構想反対」をスローガンにして、しかも「都構想のイメージを復活させない方法はなかったか、あるいは「まっとうな大阪」をスローガンにして、しかも橋下維新を敵視しない方法はなかったか、ということになります。
「大阪都構想反対」を共通の発信内容としつつ「イメージ」としての都構想を復活させない方法はあったかもしれません。これは、柳本氏自身が語っています。
<我サイドが、維新側の根底にある「再び都構想を」の流れに危機意識を持つが故に「都構想」という言葉を中身の説明をせずに連呼してしまった…>。
言葉の中身を説明しつつ言えばよかったのです。連呼するのは難しいかもしれませんが。
橋下維新は、「過去に戻すか、前に進めるか」というでしょうが、それに対しては「改革は必要である」と言い切り、それに対する反論として「では対案を出せ」というでしょう。 そのときには「夢のようなすばらしい大阪都構想の対案なんてない」と返せばよかった。
あるいは、「対案は、今はない。これから作る。」と言ってもよかったのだと思います。そして方向性として「制度ではなく政策」「しくみではなくなかみ」を示せば十分でしょう。
言い訳はできます。橋下徹に、大阪都構想に振り回されて、作っているひまはなかったと。橋下センセイだって、大阪都構想の協定書を作り上げ、住民投票に持っていくまでに6年近くの歳月を要していたのです。
だいいち、「大阪の未来像」を描くのは、そんなに簡単なことではありません。日本全体の未来像が描けていないのです。そういう中で、どんな大阪の未来像を描けるというのでしょうか。
(小生は、アベノミクスは失敗するとみています。)
先に述べましたように、「まっとうな大阪」(=「まっとうでない大阪」)を語ることはかなり厄介な問題を発生させますが、語り方を工夫すれば、ある程度この問題を和らげることはできるのではないかと思います。
それは「罪を憎んで人を憎まず」みたいなものですが、他人自身を否定するのではなくその人の言動を否定する、ということでしょう。
○レッテル貼りはしない
「レッテル貼り」とは、人々があらかじめ持っているある人や物事に対する一般的な(悪い)イメージを利用して他人を悪と決めつけるということといえるでしょう。「橋下維新に反対するもの=既得権者」はこれでしょう。これは橋下維新が常用しているものです。
たとえば、橋下維新を批判する際に「橋下維新は民主主義の敵」のような言い方はしない。 具体的に「橋下維新のこういう行為は反民主的である」は許される。ただし、「反民主的」という場合は「民主主義とは」を説明する必要があるでしょう。そうでないと「反民主的」という「レッテル貼り」になってしまいます。
「民主主義とは何か」のようなことを語ることは結構面倒なことで分かりにくいのですが、「レッテル貼り」は人々があらかじめ持っているイメージを利用しますから、簡単ですし「わかりやすい」のです。それゆえ、橋下維新はこれを多用しますし、アンチ橋下維新もついつい「レッテル貼り」をやってしまいます。
○事実を語って判断は聴く人にゆだねる。
事実を語って、その善悪の判断は言わない。判断は人々に任せる。あえて付け加えるなら、私はこう思うが、皆さんはどう思いますか、と問いかける。
たとえば、橋下センセイは大阪の財政を建て直した、などと言われています。これは、大阪市と大阪府の債務残高の推移のグラフを示せば済むことです。橋下センセイはうそつきである、という必要はない。
もう一つ事例を挙げれば、橋下センセイの言う「橋下市政の前の大阪は酷かった」の一例ですが、橋下市長は、市の公務員の天下り団体を減らしたことを自らの実績と言っています。しかし、その計画自体は平松市長時代に出来上がっていました。そういう事実を示せばいいだけなのです。こんな例はたくさんあるのではないでしょうか。
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