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大阪都騒動前史

Wikipedia「大阪都構想」によれば、大阪都構想の歴史は1950年代ぐらいまでさかのぼれるそうですが、この「大阪都騒動」で扱うのは橋下徹と大阪維新の会の提唱した大阪都構想。そして、大阪都構想が「騒動」となって世間に注目されるようになったのは2014年1月の「公明党の裏切り」あるいはその後の「大阪出直し市長選」あたりからではないでしょうか。

というより、小生が大阪都構想に注目しだしたのがそのころであった、というほうが正しいのかもしれません。

それまでは、「大阪都構想」と言う名前はちらほら聞かれていたが、大阪都構想の内容自体は問題にならなかったのではないかと思います。

この「前史」では、「公明党の裏切り」以前のことをざっと記しておきます。

☆  ☆  ☆

橋下が府市再編について公式に発言したのは、2010年1月12日だそうです。橋下が府知事に就任してから2年ほどたっています。

そして、2010年4月、橋下徹大阪府知事(当時)の肝入りで、「地方自治法の抜本改正の検討、地方政府基本法の制定に向けて、大阪から新たな自治制度を提案すべく、大都市制度のあり方について調査・研究を行うこと」を目的とする大阪府自治制度研究会が発足しました。

これは、有識者(学者4名、ジャーナリスト1名)による橋下知事の私的な諮問機関のようです。

ここでちょっと気になるのはこの協議会の最終会合で委員から、住民投票がポピュリズムにならないように強調すべきであるとの指摘があり、橋下徹大阪府知事(当時)は委員のこの指摘に対して「有識者は制度に意見を述べればいい。政治的領域に踏み込むのは越権」と述べたそうです。
2010年12月23日 朝日新聞「『大阪都は困難』 橋下知事設置の府研究会 」

なお、引用した朝日新聞の記事では「大阪都は困難」と言っていますが、協議会の最終とりまとめを小生がざっと見た限りでは、大阪都構想実現までにいろいろな障害があることを具体的に指摘してはいるものの、「困難」とは言っていないようにみえました。

2011年7月に府議会で「大阪府域における新たな大都市制度検討協議会」を設置。つまり、議会で正式に議論しよう、と言うことです。ただし、自由民主党、公明党、民主党は参加しなかった。大阪維新の会と共産党だけで議論が行われた、ということです。

この間、大阪都構想をめぐる論争は、橋下と大阪市長平松邦夫氏の間で行われました。橋下が吹っかけたケンカに、平松氏が応戦せざるを得なかった、という感じでしょうか。

この時点では、小生はまだ橋下に注目していなかったので、どんなことが起きていたのか、良くわかりません。なにやら大阪のほうで騒ぎが起きているらしい、と言う程度の受け止め方でした。

論争がどのようなものであったかについては、こちら↓をご参照ください。

「ワンフレーズ政治」「わかりやすい政治」からそろそろ卒業してみませんか
連載 インタビュールポ 平松邦夫市長と「もうひとつの大阪」 第一回
現代ビジネス 2010年12月17日

そして、2011年11月、橋下は大阪都構想を公約に掲げた「ダブル選挙」を仕掛けました。橋下の府知事としての任期は翌2012年2月まであったにもかかわらず、任期終了前に辞職して大阪市長選に立候補。大阪府知事選と大阪市長選が同日に執行された。

橋下は府知事候補として、府議会議員であった松井一郎を担ぎ出します。府と市ともに、大阪都構想を推進する首長をたてることで、構想を推進していこう、ということです。

「ダブル選」での勝利により、民意は「大阪都構想」を支持した、とみなさまれした。

ただ、この選挙では大阪都構想が争点となったというよりは、「橋下対平松」「改革派対反対勢力」のたたかい、という印象がありました。橋下がそういう演出をした、ということでしょう。大阪都構想の内容については、あまり論じられなかったのではないでしょうか。

それでも大阪都構想が公約であったわけで、公約は実行されなければならない。

2012年4月になると、大阪都構想を府と市で検討する「大阪にふさわしい大都市制度推進協議会」が発足。2013年1月までに計7回開催されています。

2012年8月には「大都市地域特別区設置法」が国会で成立。この法律は、東京都に限って認められていた特別区の設置を、他の都市でも容認する、というものです。

そして、2013年1月、いわゆる「法定協議会」(市町村の合併等を複数の自治体で話し合う、法律で定められた協議会)が発足。「大阪にふさわしい大都市制度推進協議会」はその役目を終える。

ここまでをみなおしますと、大阪府における知事の私的諮問機関での検討→府議会により設置された「協議会」における検討→「ダブル選」による「民意」の確認→府と市による協議会の設置→国の法整備→府と市による法的な協議機関の設置、と進んでいます。

都構想に対する疑問の声があったとはいえ、政治的な手続きと言う意味では着々と進んでいるように見えます。

就任後の橋下市長は、市政改革(公務員叩き、組合叩き?)に注力していましたが、2012年2月には早くも国政に関心を移したか維新政治塾の塾生募集開始。2012年9月には日本維新の会設立。13年1月には桜宮高校体罰問題勃発、13年5月の橋下自身の慰安婦問題発言をめぐる騒動などなどが次々と発生。大阪都構想はさほど話題になりませんでした。

再度、大阪都構想が注目されたのは、2013年9月に執行された堺市長選において。「大阪都」の範囲をどうするか、というのはいくつかの案ありましたが、その中で、堺市も解体して、特別区にする、と言うものがありました。

それに対して、現職の堺市長は反対、大阪維新の会は新人の対立候補を立てて争う、と言う市長選になりました。つまり大阪都構想が堺市長選の争点となったわけです。結果は、現職=大阪都構想反対派の勝利。

ここで、大阪都構想の規模を縮小して大阪市のみを特別区とする、と言う方針に転換せざるを得ませんでした。

そして、いよいよ「公明党の裏切り」から2014年出直し市長選となるわけです。


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