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どうして維新の会に合流したの?

さて、石原慎太郎は立ち上がれ日本を母体に「太陽の党」を結成するや、第3極の大同団結を呼びかけます。ただし、小沢一郎率いる「国民の生活が第一」を除いて、の話。石原は亀井氏にも声をかけたようですが、亀井氏にはまったく相手にされなかった。

この呼びかけに呼応したのが、減税日本の河村たかしです。減税を主張する河村が、増税に賛成の石原と一緒にやろう、というのだから、あきれますが。

石原慎太郎のお目当ては、橋下徹率いる日本維新の会でした。維新の会は日の出の勢いで、民主党や自民党を離党して日本維新の会に駆け込んだ議員もいたほどです。それほど「第3極」反既成政党の勢いが強かった、ということでした。また、みんなの党も日本維新の会に接近する様子も見せていました。

日本維新の会の橋下は、当初は政策の一致が重要といい、旧立ち上がれ日本のメンバーとは「カラーが違う」と言っていました。ただし、「石原さん個人とは一緒にやりたい」「石原さんの力は必要だと感じている」といっています。これに対し、旧たちあがれ日本のメンバーからはこれに対する反発もありましたが、石原が折れる形で(おそらくは、石原の独断のような形で)、作ったばかりの太陽の党を解党して、維新の会に合流しました。そして、河村たかしは置き去りにしたのです。

しかし、石原が、政策の一致よりも、大同団結を重視したのなら、なぜ、河村を連れて行かなかったのか、これが謎といえば謎。一説によれば、橋下徹が河村たかしを嫌ったとか。これが本当なら、政策の一致よりも、大同団結よりも、個人の好き嫌いが大切なのでしょう。そして、石原慎太郎自身も、大同団結といいながら、小沢一郎とは絶対に組まない、と言っていましたから、個人の好き嫌い優先なのでしょう。

それにしても、石原は(太陽の党は)、なぜ、日本維新の会に歩み寄る形で、合流したのでしょうか。たしかに、數が多くないと、政治的影響力は大きくならない、ということはあります。反既成政党でまとまる、ということも必要かもしれませんが、反自民でまとまっていた民主党が、政権を取ったとたんに内部分裂はじめたのでわかるように、政策が不一致では、政策を実行する段になって、バラバラになってしまい、ろくな結果にはならないでしょう。

もしかしたら、石原慎太郎は、維新の会と自民党が連立内閣を組めば、自分が首相になれるかも、と思ったかもしれません。

今回の選挙で自民党は圧勝しましたが、それは、小選挙区で勝っただけのこと。比例代表では、自民党の支持は伸びていません。これは当然です。なぜなら、民主党の失敗はあるとしても、国民は決められない政治にいら立っていたのであり、その責任は野党の自民党、公明党にもあったからです。妥協してでも物事を前に進める、というやり方はあった。

そういう決められない政治、既成の政治、既成の政党への不満が、いわゆる第3極、とりわけ維新の会の支持者を増やしました。あわよくば、維新の会が民主党を抑えて衆議院第2党となり、自民党と公明党で衆議院の過半数をとれなければ、自民党から維新の会に連立内閣組閣の要請があり、その要請を受ける条件として、首相を維新の会から出す、となれば(かつての村山内閣が、このパターンでした)、石原慎太郎が首相になるということもありうる。

石原としては、政策の一致はどうでもいいのですから、どこと組んでもいいのです。過去に中央官僚支配に乗っかってきた自民党とも、連立内閣を組めるでしょう。

実際、石原は、第3極ではだめだ、第2極をめざせ、などと言っていました。また、自民党では過半数はとれないだろう、などと言っています。

石原慎太郎は、1975年都知事の座を美濃部亮吉と争って敗れ、その24年後の1999年に「リベンジ」しています。尖閣諸島の実効支配の強化も、国会議員時代から主張していました。結構しつこい男なんですね。

石原慎太郎は、1989年自民党総裁選に敗れています。その当時なら、自民党総裁イコール総理大臣でした。だから、この結構しつこい男が、首相の座を狙った、というのはありうるのでは?

不思議なことに、というより、小生にとっては不思議なことに、石原首相待望論というのは、昔からあったのです。首相になってほしい人、というようなアンケートで、一位になったりしていました。だから、彼が、俺も首相になれる、あるいはもしかしたらなれる、と思っても、不思議はありません。


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