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石原慎太郎と裁判

石原慎太郎は人の言葉を聞かない、という事例を探しましたが、一つしか見当たりませんでした。

2001年7月31日、小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題について、

「堂々と黙々と行けばいい。参拝は、日本の文化の問題。反対があれば黙殺すればいい」

石原慎太郎の日ごろの態度からすれば、事例はいくらあってもいいような気がしていたのですが、人の言うことを「聞かない」というのは積極的な行動ではないので、表に出ないのでしょう。

まあ、問題発言(たとえば「天罰発言」)をなかなか撤回しない、などというのも、事例に挙げていいのでしょうか。

さて、そこでちょっとひねって、石原慎太郎は裁判というものをどう考えているのか。

2002年3月26日、外形標準課税裁判の敗訴後の記者会見にて、

「かなり変わった裁判官だと聞いていた。精読していないが、一部非常に情念的、感情的なところがあって、あまり冷静な裁判という気がしない」
「たぶんに情念的、感情的な感じがしました。いちいち反論することもないでしょう」

2004年4月23日、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)について国の事業認定などを取り消す判決が東京地裁で言い渡されたことに関し、藤山雅行裁判長に対して、記者会見にて、

「裁判官にもいろいろいまして、あの人はかなり変わった人だね」
「こんな非常識な人間を裁判で使うのは、空恐ろしい気がしますな。東京の渋滞を知っているのかね、この人は。」

うーむ、この人裁判というものがわかっていないんじゃないのか?

裁判においては、原告と被告がいて、それぞれ自分の主張を述べ、言葉で争う。それを第三者(裁判官)が聞いて、言葉で裁定を下す。裁判官も人の子、感情もあれば、知識の限界もある。当然のことながら、間違った裁定をくだすこともある(そのことを想定して、控訴・上告という手続きも定められている)・・・もちろん、そんなことのないよう裁判官は細心の注意を払うのでしょうが。重要なのは、第三者が裁定するということなのです。

すこし角度を変えて見ましょう。司法の役割の重要な一つに、行政権力の誤り、行き過ぎをチェックするという機能があります。いわゆる三権分立です。行政と市民(企業)以外の第三者(裁判所)が下した判決は、真摯に受け止めるべきでしょう。

さて、判決に際しては、言葉で語られた判決内容(裁定およびその事由)がすべて、といっていいでしょう。まずは判決内容を検討する(人の言うことを聞く)べきでしょう。敗訴したときの唯一絶対のコメントは、「判決内容を精査し、控訴するかどうか検討する。」なのです。それなのに、裁判官の言うことを聞かないで(=判決内容を精査しないで)、裁判官の人となりを云々するなんて・・・。

相手の話を聞かない、というのはよくある話ですが、第三者の言葉も聞かない、となると・・・。

とにかく裁判官がどうのこうの、というのはナンセンスですね。フーテンの寅さんではないが、「それを言っちゃあ、おしめえよ。」


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