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石原慎太郎の「テロ容認」発言について。石原慎太郎いわく、
「文芸春秋」誌・2001年5月号に掲載された連載「わが人生の時の人々」にて、1960年10月の右翼少年による浅沼稲次郎・元社会党委員長の刺殺事件に対して
「こんな軽率浅はかな政治家はその内天誅が下るのではないかと密かに思っていたら、果たせるかなああしたことにあいなった」
2003年9月11日に都内で亀井静香の応援演説で外務省の田中均外務審議官の自宅で発火物とみられる不審物が見つかった事件について
「何やってんですか。田中均というやつ、今度、爆弾を仕掛けられて、当ったり前の話だ」
「爆弾を仕掛けることはいいか悪いかといったら悪いに決まっている。だけど、彼がそういう目に遭う当然のいきさつがあるんじゃないですか。」
2003年9月12日、定例記者会見で、
「世の中にテロはなくなるかって言ったらあるじゃないですか。人間って、そういうものを最後に持ってる」
「浅沼稲次郎(社会党)委員長だって、僕らに言わせれば、おかしな、こっけいなことするなと思っていましたけどね、ああいう形で山口二矢君が出てきてテロを行う。やっぱり世の中ってのはそういう繰り返しでね。」
2011年2月24日、都議会で来代勝彦自民党都議から「20代でIT企業をおこしたある人物が『尖閣諸島を明け渡せばいい』と発言した」などとして見解を問われたのに対して、
「どんなやつか知りませんけども、昔ならそんな人間は殺されてますな。愛国の士もいましたから」
テロは悪いが、昔からあったし、これからもなくならない、というのは事実としてそのとおりかもしれません。しかし、テロが行われる当然のいきさつがある、となると、石原慎太郎がテロを容認している、と思われても仕方がないでしょう。
「当然のいきさつ」とは、誰にとって「当然」なのか。テロを仕掛ける側にとって当然であり、当然と思うことに賛成の人がいる、仕掛けられる人にとっては、当然ではないし、ほかにも当然と思わない人がいる、ということが念頭にないんでしょう。
また、なぜ「当然」なのか。具体的に言えば、浅沼稲次郎氏の場合、田中均氏の場合、あるいは「20代でIT企業をおこしたある人物」の場合、なぜ、テロを仕掛けられても「当然」なのか。
当然といったときに、この「なぜ」がぶっ飛んでしまいます。
石原慎太郎さん、なぜ「当然」か、を明らかにしないと大変ですよ。石原慎太郎にテロを仕掛けても当然、と思う人がいたら、石原慎太郎さんは「当然」でないことを説明しなければならないんですから。それも、いまのうちに。その時に「話せばわかる」と思っていても、「問答無用」でやられますよ。
それとも、石原慎太郎が嫌いな人は、テロも嫌いな人なので、石原慎太郎を狙う人はいない、と思っているんですか?(そうかもしれない)
石原慎太郎の思考回路では、自分と違う考えを持つ人は「当然」間違っている、ということになるんでしょうか。それとも思考回路がないんでしょうか。
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