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この章「石原慎太郎の言葉とおこない」のおしまいに、まとめらしきことを述べます。
1から7までは、石原慎太郎の言葉とおこないについて8、9は、石原慎太郎の論理について。石原慎太郎の言葉には論理性が希薄である、といいました。言葉と論理は切っても切り離せない関係なので、この2つは、1から7までの附属みたいなものです。
つまり、1から9までは、言葉とおこないを扱っているといえます。
それに対して、10から12では、石原慎太郎には、女性とか、被害者とかそういう人たちに対する思いやりというか、自分を相手の立場においてみるというか、そういうものがない、という事例です。
この2つの部分が一見まとまっていない。だから、まとめらしきことを言い訳として述べようとしています。
この、2つの違うものを一つの章で扱うべきか、だいぶ考えましたが、結局一緒にすることにしました。その理由は以下のとおりです。
他人は自分とは違うから他人なのだが、自分もその立場に立って共感することができる。つまり、自分と他人になにか共通のものがあるから、共感できる。
言葉はコミュニケーションの手段です。他人に共感を呼び起こす道具(記号)ですが、それは、自分と他人に共通のものを基礎としています。
しかるに、石原慎太郎の想像力とか、感性といったものが異常であり、自分を相手の立場においてみる、ということをしていない(出来ない)のであれば、彼の言葉(や論理?)がコミュニケーションの手段として成り立つはずがないでしょう。
つまり、石原慎太郎の言葉の扱い方がおかしい(粗雑・乱暴)なのは、この感性の異常に原因があるのではないか、と思われます。
以上、哲学者や言語学者なら、うまく説明できるかもしれませんが、隠居にはちょっと無理。
隠居は、他人(石原慎太郎)の感性が異常である、などとは言いたくないのです。そういったとたんに、相手との共通性が否定され、その人とのコミュニケーションが成り立たなくなってしまいますから。しかし・・・。
いや、もしかしたら、彼だけが異常なのではなく、他の人も多かれ少なかれそういう傾向があるのかもしれませんが。
なに、そんな難しいことを言わなくたって、「石原慎太郎は自分勝手だ」、とか、「石原慎太郎はわがままだ」、「石原慎太郎は無神経だ」といえばいいさ、と言われればそのとおりかもしれない。
しかし、それがふつうの人よりはなはだしい、とは言えるのでは?
(まとめたつもりですが、まとまってますかね?)
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