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<どうやって世にでたの?>は、石原慎太郎公式サイトにあるタイトルを引用しました。そして、公式サイトでは次が、<どうして国会議員になったの?>その次が、<どうして都知事になったの?>となっています。
隠居もそのまま、彼の経歴を追っていこうとしました。そもそも、私は、小説家とか文士というのは、反体制か、そうでなければ世の拗ね者であり、政治とは縁遠いものだと思い込んでいました。したがって、石原氏が国会議員になったとき、違和感を覚えました。それで、石原慎太郎が政治家になった動機を知りたかったのです。
しかし、どうもうまくいきません。というのは、公式サイトでは、タイトルのわりには、「どうして」が明確になっていないように思えるのです。
ベトナムには1ヶ月滞在した。日本に向かう飛行機の中で石原は、ふと日本について思いを巡らせていた。そして突然、先日までいたベトナムと日本の類似点に気付くのである。それには多くのものがあったが、特に強い類似を覚えたのは首都サイゴンで対話をしたインテリたちの強烈なまでの無関心」と「当時の日本で知識人と呼ばれていた人たちの政治姿勢」であった。それは石原に、「祖国日本もまたいつの日か自由主義体制が侵食され崩壊する日が来るのではないか」という懸念を抱かせたのである。
以上が公式サイトからの引用です。検討してみましょう。
「首都サイゴンで対話をしたインテリたちの強烈なまでの無関心」・・・これはどうでしょうか?政治的発言には危険が伴うため、無関心を装っていただけかもしれない、と思います。まあ、石原慎太郎にはそう見えたのでしょう。
「当時の日本で知識人と呼ばれていた人たちの政治姿勢」これは、違うと思います。当時の「知識人」もう少し限定すれば左翼知識人は、むしろ、政治に積極的に関与(反政府、半資本主義の立場から)していたといえるでしょう。
ちょっと不思議な気がしましたが、彼の言う「インテリ・知識人」には左翼のそれは含まれない、とすればわかります。多分、彼は、自分はインテリ・知識人であるが、左翼のそれはインテリ・知識人ではない、と考えていたのでしょう。
そういうことであるなら、彼のいうところの「首都サイゴンで対話をしたインテリたちの強烈なまでの無関心」と「当時の日本で知識人と呼ばれていた人たちの政治姿勢」に類似性を見出した、ということは理解できます。その時代、左翼知識人と違う意見をのべようものなら、彼らからバッシングをうけることは必定だったからです。
日本の「知識人」が政治に無関心であるがゆえに、日本の自由主義体制が崩壊してしまう。だから石原慎太郎は政治家になった、といいたいのでしょう。まあそうだとしても、なぜ「知識人」の一人として、小説家の職にとどまって、または評論家として「知識人の政治姿勢」を変えようとしなかったのか。これがわからないのです。
彼が日本の知識人について論評し、政治に関心を持つべきだ、と主張した、というのは聞いたことがありません。
率直な発言で有名な石原慎太郎にしては、めずらしくはっきりしないと思いませんか?ここでは、石原慎太郎は、本音を隠しているような気がしてならないのです。
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