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1999年(平成11年) 4月11日 、1999年東京都知事選挙に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。鳩山邦夫、舛添要一、明石康、柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。 (Wikipediaより)
Wikipediaの執筆者はギャグ、といっていますが、もしそうなら自虐ギャグ。石原慎太郎には自虐は無縁のはず。また、彼にユーモアのセンスがあるとは思えません。したがって、石原慎太郎の本音の発言ではないでしょうか?
裕次郎をご存じない方はいないと思うが、念のため。
石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年12月28日 - 1987年7月17日)は、日本のアイドル、マルチタレントであり、俳優・歌手・司会者・モデル、実業家、ヨットマンとして活動。(中略)マスメディアからは昭和の太陽(一般的に日本人(中)で最も愛した(された)男)と称される。(Wikipedia)
青年時代、かなり乱脈な生活をしていたらしく、石原慎太郎はこれをネタに「太陽の季節」を書いたと言う。
1956年に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の強力な推薦があって、兄・慎太郎の日活作品『太陽の季節』の映画でデビューした。数々の映画に出演しているが、テレビドラマの俳優としても活躍。出演ドラマは、「太陽にほえろ!」シリーズ(1972年 - 1986年、日本テレビ)、「大都会」シリーズ(1976年 - 1979年、日本テレビ)、「西部警察」シリーズ(1979年 - 1984年、テレビ朝日)。映画俳優としてよりも、むしろこれによって全国に知られることになりました。
当然慎太郎より裕次郎のほうが大衆への露出度が高い。それだけでなく、礼儀正しく、人情に厚い面もあったらしい。となれば、人気、と言う点では、慎太郎は裕次郎を上回ることはなかった、と言い切っていいでしょう。
面子を重んじる慎太郎としては、国会議員と俳優という「身分」の違いはあっても、世に出るきっかけをつくってやった弟裕次郎のほうがあれよあれよと言う間に自分を追い越し、兄である自分より有名になり、かつ人気が出てしまった、ということになれば、彼の胸中は複雑だったのでは、と推測します。兄としては、面子が立たない。
裕次郎より人気がない、と言う劣等感が、冒頭の「裕次郎の兄」という言葉をいわしめたのではないかと思います。
さて、隠居はこれまで、慎太郎が作家から政治家(国会議員)に転向し、いったん国会議員をやめたあと、再度政治の世界にもどり、都知事になった、その動機が良くわからない、と言いました。
全くのあて推量ですが、隠居は、慎太郎は裕次郎に人気、あるいは知名度でも勝とうとして、見込みのない小説家をやめ、国会議員になった。自民党に集票装置としていいように使われ、総裁選で敗れたため、国会議員としての自らの限界を感じたのではないでしょうか。裕次郎の死後ではあるが、弟を追い越そうとして、再度、ある意味では国会議員よりメディアへの露出度の高い東京都知事に挑戦、その後、知名度を維持するために、半ば意識的に問題発言を繰り返したのではないか、と思われてならないのです。
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