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2005年9月27日、都議会本会議で代表質問への答弁の中で、
「国連憲章の精神って何ですか。金科玉条なんですか。国連てそんなに大したものなんですか。神様みたいな存在ですか。冗談じゃないよ」
「今ごろ国連憲章なんて、まともに信じているバカいませんよ」
国連は、いわゆる安全保障以外に、様々な機能を持っていますが、この発言の際の石原慎太郎の念頭には、おそらく安全保障しかないでしょう。まあ、たしかに安全保障が国連の最も重要な役割であることは誰しもみとめることですから、それはそれで、いいとして。
慎太郎様のおっしゃるとおりです。国連は宗教機関ではないので、国連憲章は信仰の対象ではありません。したがって、信じている人はいないでしょう。
翌日、東京都議会本会議で、前日の発言を問われ、
「国連憲章に何がうたわれていようとですよ。内部が腐敗しきった国連の実態。戦後60年たってなお戦勝国条項なるものがまかり通っているいびつな仕組み、運営とその実態。そろそろ国連信仰はお捨てになったらいいんじゃないでしょうか」
国連憲章は、理念であり理想であります。現実に存在する国連の「仕組み、運営とその実態」がその理念ないし理想とはかけ離れたものに見えようとも、理念ないし理想を実現しようとして努力している、という事実は認めるべきでしょう。国連憲章を尊重する、というのはそういう努力をする、ということなのです。「仕組み、運営とその実態」を、国連憲章の理念に近づけるよう努力することが尊重する、ということなのです。
2009年4月12日、陸上自衛隊練馬駐屯地の創立58周年記念式典で、
「日本は相変わらず国連さまに依存して、結局その国連は何の役にも立たなかったじゃないですか」 「私たちは国連やアメリカを気にしなくとも自分自身でこの国を十分守れる。」
アメリカやロシアですら、軍事行動を起こそうというときには、国連のお墨付きをもらおうと努力するぐらいです。何の役にもたたなかった、とはいえないでしょう。
仮に「国連やアメリカを気にしなくとも自分自身でこの国を十分守れる」、としても、国連やアメリカを「気にする」(たぶん「あてにする」といいかえていいと思いますが)ほうが得ということはありませんか。戦争は浪費です。自分で守るために余計なお金をつかうより、国連を利用したほうがいいんじゃないですか。
以上は、石原慎太郎の「真意」に対する教科書的な反論です。これでも十分でしょうが、隠居はさらに、「真意」ではなく、石原慎太郎について、3つ指摘します。
まず、石原慎太郎の、国連を軽視するこういう態度は、権威にかみつく、ほえかかる、という石原慎太郎の習性のあらわれではないか、と思います。
次に、こういう態度は、裁判に対する態度(「石原慎太郎と裁判」)、憲法についての見解(「石原慎太郎と憲法」)等にあらわれている、手続き(プロセス)軽視のひとつではないかと思われます。真実や正義は簡単に明らかになるものではないので、手続き(この場合は国連での討議)が必要となる、ということはすでに述べました。
もう一つは、歴史認識のなさです。国際連盟を脱退した日本が、どのようなことになったか、ということ、このことを石原慎太郎はどう思っているのでしょうか。
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