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石原慎太郎の言葉、言葉とおこないには、矛盾が多いことは、これまで述べたとおりです。しかし、それにしても、無茶苦茶ですね。一体どうしてそんなことが可能なのでしょう。
多分、こういうことでしょう。
そもそも石原慎太郎の言葉は、その時、その場の状況において衝動的に発せられるものであって、理屈とか論理とは無関係なのでしょう。理屈ぬきの場当たり的発言に矛盾が多く、一貫性がないのは当然でしょう。
石原慎太郎を支持する人々は、彼は外交・防衛、改憲賛成等では、彼が重要と考えていることでは、終始一貫している。決して場当たり的な発言ではない、というでしょう。では、そこに一貫した論理があるのでしょうか。
どうもそうは思えません。彼は、「結論」を言い切るだけです。理屈付けはしません。人間の本能的なものに訴える主張だから、理屈など抜きで、聞く人を納得させることが出来るからです。相手を論理によって説得する必要などないのです。
たとえば、「自衛隊(軍隊)は必要だ」「憲法は改正すべきだ」「核兵器を持つべきだ(あるいは、それについて議論があっていい)」は、自己防衛本能から出てくる言葉でしょう。領土問題(尖閣諸島、竹島)に関する強硬姿勢も、自己防衛本能の一種である縄張り意識から出てくるものでしょう。なぜ、そうなのか、について、石原慎太郎は説明する必要はありません。
そして、本能は本能だけにそう簡単に変わることはない。したがって、彼の主な政治的見解は一貫しているのでしょう。
さて、そういう目で見ますと、「理屈ぬき」はずいぶんあります。
小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題について「反対があれば黙殺すればいい」といい(「石原慎太郎と裁判」)、テロについて「当然のいきさつ」があるといいながら、「当然」とはどういうことかを示していない(「石原慎太郎とテロ」)。
2007年9月7日都知事選前に公約として掲げた、低所得者を対象にした住民税減税導の撤回を発表。公約違反ではないかとの記者の質問に対して「何が違反ですか」と声を荒らげ「公約の進化だ」と居直ったが、具体的な代案は示さなかった。(「監視小屋」)
2007年12月2日、フジテレビ「報道2001」に出演し、話題になった「ミシュランガイド」東京版についてコメントして「かなりいいかげんだからね」「あんなの全然ダメ」、といったが、何がダメなのか具体的なことは何も示さなかった。(「監視小屋」)
石原慎太郎が、三宅島の村議に対して、「お前ら、都が推薦した人事をよく否決したな」、「おまえらバカかって。三宅島っていうのは本当にまとまりのない島だ」といっています(石原慎太郎の「馬鹿」)が、なぜ「馬鹿」なのか理由がはっきりしません。都の推薦した人事を否決したから、馬鹿なのか、まとまりがないから、馬鹿なのか。なぜ否決するのが馬鹿なのか。なぜまとまりがないのが馬鹿なのか。相手を「馬鹿」といっている割には、石原慎太郎の言葉には論理が希薄です。
そういえば、石原慎太郎が「馬鹿」といっているときは、論理が希薄なことが多いように思われます。論理が希薄であることを補うために、「馬鹿」といっているのでしょうか?
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