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石原慎太郎にとって、言葉とはどういうものなのでしょうか?
いままで述べてきたことをまとめると、以下のようになります。
彼は、自分の意図が相手に正確に伝わるよう、言葉を吟味して扱うということをしない(「石原慎太郎のカタカナ言葉」)。彼は、自分の言葉で他人を傷つけても平気(「石原慎太郎の『馬鹿』」、「石原慎太郎の言葉の汚さ」)。また他人の言うことにも耳を貸さず、自分の発した言葉にも従わない(「石原慎太郎と裁判」、「石原慎太郎の言葉とおこない」、「石原慎太郎の言葉とおこない2」)。
要するに、感じたまま、思ったまま、言いたい放題ということです。
感じたまま、思ったままをストレートに表現すること、これはやってはならない、とはいえません。いわゆる言論の自由です。しかし、他人を傷つけても平気。また他人の言うことにも耳を貸さず、自分の発した言葉にも従わない、というのはいけません。
隠居=小生は、言葉はコミュニケーションの手段だと考えています。したがって、言葉が相手にどう受け取られるか、を考えながら言葉を発します。相手にその真意が伝わるように、相手が不快にならないように言葉を選びます。相手の意見・・・たとえそれが自分の意に添わないようなものであっても・・・聞こうとし、それが正しければそれに従います。そして、人にこうすべき、といったことは、自分でもそうしています。厳密に言えば、そうしようと心がけています。これは、何も隠居だけの話ではなく、ごく普通の人たちのやっていることではないでしょうか。
それに比べたときに、石原慎太郎にとって言葉とは、どういうものなのでしょうか。
石原慎太郎の言葉は、動物の鳴き声・吠え声にちかいものなのではないか、とさえ思われます。ここに、彼の言葉の本質があるのではないか、と思います。
小説家の言葉でも、政治家の言葉でもありません。
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